■やっとメインテーマです
非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする民法の規定を違憲と判断した最高裁の決定については、すでに何度がブログにコメントをアップしました。しかし、この決定では、判例の事実的拘束力を制限するというなかなか衝撃的な内容が含まれていたため、もう一つのテーマに目を奪われ、なかなか本来のメインテーマである平等原則について、コメントすることができませんでした。しかし、今回の決定、メインテーマのほうも非常に面白い内容です。今頃になって? またその話?と言わず、ぜひチェックして下さい。
■国会の立法裁量は大きいという話
議会(国会)には、大きな立法裁量があって、民主的基盤を持たない裁判所が、どんな法律を制定するかについて、とやかく言えないのが原則(法律は民主的な手続で制定されるべきという要請がある)、とはいっても、法律が立法裁量の範囲を超えて憲法に違反しているということになれば、さすがに裁判所も黙っているわけにはいかなくなります。そのあたりの違憲審査の話は、すでに違憲決定が出る前の記事で説明したとおりです。
今回、立法裁量にも関わらず、違憲の判断が出た訳ですから、裁判所としては黙っていられない領域にまで達していたということですね。
では、今回の裁判所の判断はどのような意義を持つのでしょうか、私は憲法学者ではありませんから、詳細まで論じるような僭越なことはしません。しかし、今回の決定の中には、気になる点がいくつかあり、ぜひちょっと知っておいてもらいたいと思うのです
■平等権に対する制約とは
今回裁判所が、民法の規定を違憲とした根拠は、平等原則(憲法14条1項)違反ということは、皆さんすでにご存知でしょう。「非嫡出子が、嫡出子の半分しか法定相続分が認められないのは不平等じゃないか!」ということです。
平等原則(平等権)は憲法に定められた重要な権利・原則ですが、だとしても絶対無制約ではなく、公共の福祉という名の制限を受けます(憲法第13条)。
つまり、ある法令が、差別的な取り扱いを規定するものであったとしても、それが事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づく範囲であれば、「公共の福祉」による制約であり、違憲とは判断されません。そこで、今回の裁判でも「合理的な根拠に基づく範囲」と言えるかが、争点なりました。
特定の性質を有するグループに対して特別なルールを設ければ、なんでもかんでも憲法違反というのでは、社会は成り立たたないでしょうから、これはまあ当然ですね。
■違憲判断の要素その①
裁判所が今回違憲と判断した一つの要素として、まず「非嫡出子という立場が、当人自らに選択の余地がない事柄である」ということを挙げなければなりません。
本人の努力によっては如何ともしがたい事柄や、自ら選択の余地のない事柄によって別異の取り扱いを定める場合には、違憲性についてより厳しく審査すべきということは、ほぼ確立した考え方です。
今回の場合も、自ら事実婚を選択した親はともかく、非嫡出子として生まれることについて、子にはなんらの選択権もありません。そのため「子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事項を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず」として、最高裁もその点を重視しています。
しかし、この要素はあくまで、より厳しく審査すべきという(違憲判断のハードルを下げる)理由になるだけで、選択の余地のない事項による差別だからといって、それだけの理由で即、合理的根拠のない、許されない差別と判断されるわけではありません。たとえ下がってはいても、ハードルは越えている必要があります。そこは注意してほしい点です。
■前回の平成7年大法廷決定は変更されたのか
今回の違憲判断の最大の要素は、時代の変遷による立法事実の変化、そこにあると言えます。
立法事実とは、法律の合理性を支える社会的事実のことです。ところが、この立法事実というヤツは、時代が変われば移り変わるのがやっかいなところ。たとえば、ある健康被害が多発していたという社会的事実があり、予防すべき大きな必要があったとしましょう。しかし。時代が移ればそのような健康被害な発生がほとんどなくなったりすることもあります。そうすると、予防施策は合理性の支えを失ってしまうのです。
今回の決定でも、家督相続制度が廃止され、制度としての「家」制度がなくなっても、当初は、いまだ法律婚を重視し、家族を重視する機運が強かったが、近年では婚姻や家族というものの考え方が多様になっていることや、諸外国の例、財産を相続することの持つ意義や役割の変化などを挙げ、非嫡出子の相続分を2分の1とする規定の合理性を支える立法事実が変遷してしまったことを述べて、違憲との判断を導いています。
そのため、最高裁が自ら、法律婚の意味が薄れていることを自認している点など、決定の中身は非常に興味深いものになっているわけです。
しかし、それにも増して、ぜひ注意をしてほしい点があります。それは結果として導き出された「遅くとも平成13年7月当時(今回の事件で相続が発生した時点)において、憲法14条1項に違反していたものというべきである」という結論です。
最高裁はそれ以前に起きた相続のことについて何も述べておらず、平成7年の大法廷決定を変更したわけではないという仕組みになっているわけです。
もっとも、平成15年3月31日、平成16年10月14日、平成21年9月31日にも合憲とした小法廷判決(決定)があります。これらの判決は否定したのでしょうか?
いえいえそうではありません。問題は相続発生時に違憲であったかどうかですから、そこを確認しなければなりません。つまり・・・
平成15年と16年の判決→平成12年9月に発生した相続
平成平成21年の決定→平成12年6月に発生した相続
それぞれ以上についての判断ですから、いずれも今回の判断と矛盾してはいないのです。これまでの最高裁の判断はすべてそのまま。今回の事件が、もし平成12年9月以前に発生した相続だったら、いったいどうなっていたのでしょうか。
本当にそれでよいのか、なんだかちょっとずるいなという気もしてきます。
■昭和63年5月以降から平成13年7月まではどうなる?
そうなると平成12年9月から平成13年7月までの間は、最高裁の判断のない空白期間ということになりますね。この間に生じた相続について、新たに訴えを提起したらどんな判断になるのでしょう?
また、前回の平成7年の大法廷決定は、昭和63年5月に発生した相続についての判断です。おそらく、それ以前に発生した相続については、裁判所は合憲との判断をすると思いますが、昭和63年5月以降、平成12年9月までに生じた相続についてはどうでしょう?小法廷の判断を否定する可能性はまったくないのでしょうか。(おそらく・・・ないでしょうね)
ここは残された疑問です。
■気がかりなこと
それは、今回の決定が出る前から出ていた、「今や価値観が多様化して非嫡出子は珍しいものでも何でもない」「諸外国の例では、非嫡出子の割合半分近い国もある」という事実を挙げて、非嫡出子を別異に取り扱う理由は今の時代、すでになくなった、だから違憲とすべきだというような論調のコメントです。
このような事実を挙げて、立法事実は変遷し、法律の合理性を支える事実が無くなった理由づけにすることは、一見非常に正しい判断構造のようにも見えます。たしかに、国民の求める家族の在り方や婚姻の意義が変わってきた結果として、非嫡出子の割合が増えているとすれば、非嫡出子の相続分に差を設ける意味はない気がします。
しかし、ちょっと待ってください!
それでは、非嫡出子の数が増えれば差別はノー、数が少なければ差別はイエスという発想に陥ってはいないでしょうか?
してはならない差別は、少数派に対しても多数派に対してもしてはならないのであって、少数派なら差別してもよいという発想は、最も避けなければならない態度ではなかったでしょうか。とくに、数の論理でつぶされてしまいかねないマイノリティを救うのは、司法の使命です。
もともとマスコミの端っこにかかわっていた私としては、マスの力に対抗できる法曹の可能性に魅力を感じ、この世界の扉を叩いたという側面があるので、そこには敏感になってしまうのです。
■ほっとできるのか、この一言
今回の決定でも、全体としては、婚姻や家族の形態が著しく多様化していること、それによって国民の婚姻や家族に対する意識も多様化してきていること、そこから非嫡出子の割合は世界的に増えていることを切々と述べており、心配が的中してしまったかのような論調が目立ちます。
しかし、さすがは最高裁?
「嫡出でない子の権利が不当に侵害されているか否かという観点から判断されるべき問題であり、法律婚を尊重する意識が幅広く浸透しているということや、嫡出でない子の出生の多寡、諸外国と比較した出生割合の大小は、上記法的問題の結論に直ちに結び付くものとはいえない」
決定には、この一文がちゃんと入っており、私としては非常にほっとした次第です。
たとえば、非嫡出子の割合が増えていることは、社会変化の結果を示す一つのデータの意味しかなく、そのまま合憲・違憲の理由として使えるわけではないでしょう。考えても見てください。単に数が増えたというデータだけであれば、割合が増えればより事態が深刻になったのだから、法律を支える合理性はより高くなるという論理の構築に利用することだって可能じゃないですか。
最高裁が、どこまでそのことを意識してくれたのかははっきりいって、よくわかりませんが、私にとっては今回の決定に、この一文が入っていたことに、本当に胸をなでおろした次第です。